ASDの私の経歴と苦労していること

p4174 発達障害

経歴

こんにちは。

今回は発達障害について綴りたいと思います。

長いので目次から見たいところを選んで構いません。

プロフィールにも書いてありますが、私は29歳で自閉症スペクトラム障害(ASD)の診断を受けました。

診断される前にネットでASDについてたくさんのサイトを調べていたのですが、そこに書かれていた特徴の大半と一致していたことに驚きました。

もうこれは確実に診断されるな…と。

幼少期

一般的に言葉を話し出すのは1歳前後だと言われております。

私はそれよりもかなり遅かったみたいです。

母親によると私が初めて言葉を話したのは2歳3ヶ月ごろだということ。

なかなか話さなかったのでようやく一語文を話したときは他県に住んでいる父方の祖母がとても喜んでいたと聞きました。

幼少期において、私はごっこ遊びをしておらず1人で遊んでいることが多かったようです。

そのころの記憶を思い出すのは難しいですが今も1人でいるのを好んでいることを考えていると確かにそうかもしれません。

小学校

小学校の時は眉毛やまつ毛を全て抜くという自傷行為がありました。

なぜ全て抜いていたのか今でも思い出せません。

無意識で抜いていたのかもしれない。

また、好き嫌いが激しく小学校低学年の時に給食でサバの味噌煮出たのですが本当に苦手でティッシュにくるんでお道具箱の中に隠していました。

当然その中はティッシュにくるんでいるとはいえ、味噌煮臭くなります。

当たり前のことですねw

あとは魚のつみれ汁が出た時は喉に小骨が刺さってそれ以降刺身を除いた魚料理の大半が苦手になりました。

運動神経は悪く、徒競走はビリか良くてもビリから2番目という鈍足です。

休み時間に逆上がりしようとして鉄棒から地面に落ちたことが二度もあります。

縄跳びは二重跳びがいつまでもできませんでした。(ちなみに今も跳べません。)

動きがぎこちない部分があったので中学年の時に同じクラスの男子にそれを真似されてからかわれたこともありました。

大人になった今となっては眉毛やまつ毛を全部抜くという行為はやらなくなりました。

ただ、抜毛の癖は残念ながら消えておらず現在は陰毛に変わっています。

中学校

中学校の時はというと、それはそれは闇に葬りたくなるほど暗黒の時代でした。

同級生に廊下ですれ違いざまに「キモい」「死ね」など言われたり舌打ちをされました。

朝、教室に入って自分の机が倒されていたのを見た時はなぜ倒されていたのか理解に苦しみました。

また別の日には移動教室に使うバッグが無いことに気付き、担任に呼ばれて職員室に行くとハサミで切られた持ち手部分を手縫いで修復(それでも元の状態には戻っていない)されて返されました。

卒業してから15年以上が経過しますが結局犯人は分からずじまいのまま。

部活動は管弦楽部に所属していました。

同学年の中では悪い意味で浮いていて仲のいい人はほとんどいませんでした。

それなのに1つ上の先輩2人に可愛がられて持ち込み禁止のお菓子を何度かもらいました。

その先輩たちと一緒にいる時は普段のつらいことを忘れられたけど引退して再びぼっちになってからは本当にしんどかったです。

中学2年から塾に通っていましたが同年代の人より年上の大人と話している方が楽しかったです。

大人は自分が言いたいことを理解してくれるからです。

だけどあまりにもしんどかったので自殺したいと思ったことが何度もありました。

でも自殺するのはよろしくないし、親に心配をかけるわけにはいかないということで卒業式の日までほとんど休まず必死に耐えました。(休んでしまったのは当時流行っていた新型インフルエンザに罹っていたためです。)

卒業式が終わった瞬間の開放感は今となっても忘れはしません。

あの日はさっさと家に帰って今までの苦しい生活なんて忘れ去りたかったのです。

高校

中学生活で男子に対してトラウマになってしまったので高校は女子校に通っていました。

女子校での生活は楽しかったです。

クラスには色々なタイプがいましたが自分のキャラ位置は多分不思議ちゃんだったと思います。

家庭科の授業で理想の結婚相手の条件についてグループ内で発表するというのがあったのですが自分はかなり事細かに書いていました。

ノートに何を書いていたのかは思い出せないけどとりあえずたくさん書いていたことだけは確かです。

ただ結論を言えば『男は嫌い』

そのことを言ったら教室じゅうがざわついたのを今でもはっきりと覚えています。

思い出したもくないトラウマで異性に対して心を閉ざしてしまったのです。

部活動はどこにも所属せず帰宅部でした。

帰りに本屋に行って漫画を買ったのが楽しかったです。

幸いにも高校時代はいじめられることなく卒業しました。

陰口は多少なりともあったけどね。

でも今みたいにLINEが当たり前の時代ではなかったのでネットいじめに遭わずに済みました。

大学

大学は親元を離れて1人暮らししていました。

やりたい学科のある大学が地元になかったので1人暮らしはどうしても避けらなかったのです。

今まで親にやってもらっていたこと(家事やゴミ出し)を全て自分でやらなければならずかなり苦労しました。

同じ発達障害であるADHDは診断されませんでしたが部屋の片付けが苦手で足場があまりないことが多く、床には髪の毛が散乱してたり飲みかけのペットボトルが何十本も転がっていました。

これは今でも変わっていません。

時々その溜まりに溜まったペットボトルを洗いに行くと家族から苦言を言われることが当たり前です。

交友関係では友達は1人しかできませんでした。(後に中退してからLINEでやり取りしていた際にあまりのメンヘラっぷりに嫌気が差して関係を断ち切りました。なので現在は友達が1人もいません。)

オリエンテーションの時に教授が「友達は最低でも3人は作りましょう。」なんて言っていたけど周りを見ると既にくっついていてとてもじゃないけど声を掛けられる雰囲気ではありませんでした。

この時点でもう詰みです。

私が大学に入った2013年(平成25年)はLINEが当たり前になりつつある時代でしたが、「どうせ韓国に個人情報が流されるんだろ。」っていう昭和な考えを持っていた自分はLINEをやっていませんでした。

ある時、同じ専攻の人たちで作ったグループLINEで「誰が留年するか」なんていう会話に自分の名前があったというのを友達から聞きました。

その話を聞いた時は低レベルでくだらないと同時に自分は問題児なんだなと思いました。

実際、その後単位が足りず3年生に進級することができませんでした。

ブログ主について』にも軽く書きましたが単位を落とした理由は現実逃避するかのように講義をサボりまくってネトゲ三昧の日々を送っていたからです。

ちなみにそのネトゲというのは今は引退しましたがドラクエ10です。

当然それは親にバレてゲーム機そのものを取り上げられました。

ゲームができる時は実家に帰った時のみとなり、かなりつらい生活を送っていました。

だけど3DS版(現在はサービス終了)が出た時は「実家に帰らずともできるんじゃないか。」と知り、早速買ってプレイしましたが文字は小さいわ、画面はカクつくわでまともにできたものではありませんでした。

特にしんどかったのがチャットです。

定型文(例:「こんばんは」「ありがとう」「おつかれさまでした」)は問題なくできるのですが、適宜入れなければならないチャットではモタつくことが多く、イライラしていました。

3DS版ではチャットの入力はタッチペンでやっていました。

変換でどれだけ時間がかかったのやら…

普段はキーボードで入力していたのでその差に愕然としてましたね。

中退〜初めての引きこもり

中退して地元に戻ってからは取り上げられていたゲーム機が返されて再びゲーム三昧の日々を送っていました。

1日中できるようになったこともあり、レベル上げをして全職カンストさせて黄色文字にすることが当たり前でした。

このころはほとんど家の外に出られませんでした。

例外として、2017年(平成29年)にドラクエ10で仲良くなった人とオフ会で東京に行きました。

移転前のルイーダの酒場での食事やカラオケルームでチームプレイした時は楽しかったです。

一部の方とは同じ年の夏にもう一度リアルで会いました。

いずれもその時は『無職』とは言わず『職探し中』と嘘をついていました。

無職ってダイレクトに言ったら悪い印象を与えてしまうので。

最初の職場に就職するまでだいたい2年半くらいはこのような生活でした。

就職〜最初の職場

最初は派遣で接客の仕事をやっていました。

「接客の仕事をやる。」と家族に伝えた時はとても驚かれました。

自分の性格的に接客は向いていないと思われていたみたいです。

仕事の内容はレジでお客さんが購入した商品をレジに通して商品を袋に入れる作業です。

割れ物はプチプチに包んでから袋に入れなければなりません。

時にはラッピングを頼まれることもあり、クリスマスや年度末は特に忙しかったです。

ラッピングに使う緩衝材で指を怪我することはよくありました。

最初の職場は4ヶ月半で辞めました。

なぜ辞めたのかというと、私より後に入った同じレジの人と相性が合わなかったからです。

その人は他の人に対して媚び売っておいて、自分には無言の圧をかけていました。

ある日、わざとぶつかられたその時はイラッとしました。

「こいつ…」って本気で思いました。

そのイライラが積もり積もって退職に至りました。

そもそもASDはコミュニケーション能力が壊滅的なので(当時は自分がASDだということを自覚してなかった)接客なんて不向きなのです。

二度目の引きこもり

無職になり、しばらく家に引きこもる生活を送っていました。

引きこもりはこれで二度目ですね。

2018年(平成30年)の4月。

この年、妹が受験生だったのですが学校に行きたくないと部屋に篭っていました。

結局その日は休んだけど母親が妹の部屋のドアを足で蹴っている音が隣から聞こえました。

その声から苛立ちというものを感じました。

思春期だし反抗するのは仕方ないよなって思っていても結局口には出せず。

なぜかこちらにも火の粉が降りかかり、自分の部屋のドアを足で蹴る音が聞こえました。

今でも当時のことを昨日のことのようにはっきりと覚えています。

その音を聞いてこのままでは良くないと思い、慌ててハローワークに行って仕事を探しました。

その時に見つけた職場が次の職場になります。

次の職場

次は市役所で臨時職員(今でいう会計年度任用職員)として働いていました。

事務補助ということで正職員の人から頼まれた仕事(主にパソコンのデータ入力)を行っていました。

決まった時間になったら文書回収して分別して職員に渡す業務もありました。

覚えるまでにかなりの期間がかかりました。

ある日、同じ課で違う係のボス格の子持ち嘱託職員が周りの若い臨時職員たちと取り巻きになってなんとなく自分の悪口を言っているのではないかと思うようになりました。

最初は気のせいだろうとスルーしていましたが、だんだんそれが自分のことを言っているのに気づきました。

面と向かって話す時はいい人のふりをするくせにそれ以外はわざと聞こえるように悪口を言ってくるというタチの悪い連中です。

大ボスが退職してからは中ボスが中心となって悪口を言ってきました。

その期間は実に1年以上は続きました。

だんだんそのダメージは精神だけでなく肉体にも現れるようになり、抑うつの症状が顕著になりました。

朝、仕事に行く時間が近づくと吐き気が酷くなり食欲は大幅に落ちました。

昼は逆に食欲が亢進的なり食堂で大盛りばかり食べていました。

体が細いので食堂の人によく「大盛りでいいの?」と確認されました。

睡眠時間は酷い時だと2時間くらいしか眠れないこともありました。

さすがにこのままでは体が壊れると悟り、退職しようと思った日の2週間前に上司に申告ました。

本当は1ヶ月前までに申告しなければなりませんがそのころの精神状態はボロボロでした。

最後の月で欠勤した日数は半分以上にのぼります。

退職する日の夕方、同じ課の人にひとこと言った後に中ボスがわざと大きい声で「やっと終わった。」って言ったのを聞いた時は本気で殺意を抱きました。

実際に行動に移したら前科持ちになってしまうのでグッと堪えました。

勤務した期間は欠勤を含めて1年4ヶ月でした。

三度目の引きこもり

退職してから2年近くはまともに外に出られませんでした。

それだけ心の傷が深かったのです。

ドラクエ10のフレンドに「今は自分の好きなことをするといいよ。」と言われた時は心を救われました。

このころから冒険日誌の更新頻度が以前より上がったような気がします。

精神的に安定してきてようやく外に出られるようになり、現在の職場に就きました。

現在の職場

現在の職場は小さな会社です。

当初は事務所で仕事をしていました。

だけど電話対応でつまずきました。

市役所で働いていた時は電話対応は正職員の人が行なっていたので自分が当たることはありませんでしたが、現在の職場は人数が少ないので嫌でも電話対応をしなければなりません。

小学校の時に聞き取りテストという放送を聞いて必要なことはメモにとって問題に答えるというテストがありました。

私はその放送で話していたことを最初からメモに取ろうというやり方をやって話の内容がどんどん進んでいって結局まともにメモもとれずに問題を解くということが何度もありました。

結果100点満点中30点しか取れませんでした。

それくらいマルチタスクができません。

電話対応では相手の話す速度が早いとメモがとれず頑張ってメモをとれてもミミズがのたうったような文字で自分でも読めなくて取次の際に相手を困らせていたことが多々ありました。

事務所での仕事はデータ入力や電話対応だけでなく、来客対応もあります。

毎週木曜日は赤ちゃんの来客が多く、背後で泣き声を聞きながら事務の仕事をやるのですがその声が耳につんざくように聞こえるのです。

家に帰ると他の曜日と比較して木曜日だけ異常に疲れが酷かったです。

後にこれは感覚過敏(聴覚)だと知りました。

入社して2年ほど経過して事務所から作業場に移動しました。

作業場では電話対応の業務はなくなり物づくりがメインとなりましたが速度が求められるためここでもつまずきました。

あまりにも時間がかかりすぎるので「遅い。」と怒られることが何度もありました。

自分なりに速度を上げてもクオリティが下がるのでそこでもまた怒られました。

職場で我慢しても家に帰って自分の部屋に入れば感情が溢れて家族にバレないようにすすり泣いていました。

その回数はもはや数えていません。

ストレスチェックに引っかかる〜初めての心療内科

ある日、職場のストレスチェックを受けました。

しばらくして『高ストレス』の結果を受けて上司と話し合い、職場と提携している心療内科に通うようになりました。

精神科や心療内科とは一生関わることはないと思っていたのですがまさか現在に至るまで関わるようになるとは当時は考えてもいなかったです。

通院して最初に診断されたのは社交不安障害でした。

自分から話そうとすると緊張して言葉が出なくなるのでそれ以降は診察前に最近の調子はどうか?などを紙に書いてそれを先生が見て診察するというやり方でいきました。

この時、処方された薬は漢方でした。

次に診断されたのは過敏性腸症候群(下痢型)でした。

昔からよく下痢になりやすく、お腹の調子がよくなる薬を処方してもらいました。

だけどしばらくしても良くなる様子が見られず、何度か診察しているうちに「正直これを伝えていいかどうか…」と医師から言われました。

気になったので伝えて欲しいと言ったら「軽い発達障害の疑いがある。」と言われました。

具体的な名前は広汎性発達障害(現在の自閉症スペクトラム障害)です。

伝えられた当初はそれ(=発達障害)を受け入れられませんでした。

検査を受けるまで家族には黙っていました。

でも、今までの人生を振り返ってみて生きづらさというものを何度も感じてきたし、発達障害かどうか知りたいと時間を置いてからですが先生に伝えました。

まずはスクリーニングとしてAQテストを受けました。

50点満点中33点以上で発達障害と診断される可能性が高いというもので私は39点という結果が出ました。

これより詳しい検査をするには転院する必要があると言われ、現在通院しているところへ転院しました。

転院〜診断

2023年(令和5年)12月に心理検査(WAIS-Ⅳ)を受けました。

心理士と1対1で2時間近く行い、1ヶ月後の結果を聞く日まで発達障害についてネットで読み漁っていました。

そして渡された結果の資料を見るとIQは全体的に平均だけど一番高い言語理解と一番低い処理速度の差が30近くもありました。

確かに頭の中で思い描いたことと実際の行動でチグハグが激しいなというのはありました。

実際、作業の速度が遅いのでその通りなんだな…と。

養育者から幼少期の様子を聞いてADHDやASDの傾向があるかどうかという項目もありました。

ADHDはカットオフ値は超えていなかったけどASDは超えていました。

念のため、診察の終わりに発達障害かどうか聞いてみたら「発達障害です。」と、はっきり告げられやっぱりかと同時に生きづらさの原因が分かってホッとしました。

その後

職場には上の立場の人にしか伝えていないため、事情を分かっていない人には今までどおり定型発達のふりをして過ごさなければなりませんでした。

正直、精神的に結構しんどいです。

ある日、ちらっと『発達』って言ったのを聞いた時は発達障害に対して差別的な認識を持っているのかとがっかりしました。

職場には身体障害者は何人かいるけど発達障害は私の知る限りで自分しかいない(と思う)。

上司に報連相もまともにできず、そんなこんなで日に日に精神的に病んでいき気が付いたら月の半分くらいは体調不良で休んで家で寝込むようになりました。

このまま休んでばかりではまずいと思い、病院に行き診断書を書いてもらいました。

診断の結果はうつ状態です。

最初は1ヶ月だけでしたが休職期間の終わりが近づくと精神的に不安定になるので期間を延長してもらいました。

体調が安定した時に半日だけですが通院している病院でやっているデイケアに参加してます。

まだまだ参加できる頻度は少ないですがいずれは1日参加できる日を増やしていきたいなと思ってます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました