ASDの私の経歴と苦労していること

発達障害

経歴

こんにちは。

今回は、発達障害について書いていきたいと思います。

少し長くなるため、必要に応じて目次から気になるところを読んでいただければと思います。

プロフィールにも記載していますが、私は29歳の時に自閉症スペクトラム障害(ASD)の診断を受けました。

診断を受ける前、ASDについてインターネットでさまざまな情報を調べていたのですが、そこに書かれていた特徴の多くが自分に当てはまっており、とても驚いたことを覚えています。

その時点で「これは診断されるだろうな」と、ある程度覚悟はしていました。

幼少期

一般的に言葉を話し始めるのは1歳前後だと言われています。

私の場合はそれよりもかなり遅かったみたいです。

母の話によると、私が初めて言葉を話したのは2歳3ヶ月頃だったとのことでした。

なかなか言葉が出なかったため、ようやく一語文を話した時には他県に住んでいた父方の祖母がとても喜んでいたそうです。

また、幼少期の私はいわゆるごっこ遊びをすることが少なく、一人で遊んでいることが多かったようです。

当時のことをはっきりと思い出すのは難しいですが、今でも一人で過ごす時間を好んでいることを考えると、確かにその頃からそうだったのかもしれないと感じます。

小学校

小学校の頃、私は眉毛やまつ毛を全て抜いてしまう行為をしていました。

いわゆる自傷行為にあたるものですが、なぜそのようなことをしていたのかは今でもはっきりと思い出せません。

無意識のうちに行っていた可能性もあると思っています。

また、好き嫌いがかなり激しい子どもでした。

小学校低学年の頃、給食でサバの味噌煮が出たことがありましたが、どうしても食べることができず、ティッシュに包んでお道具箱の中に隠してしまったことがあります。

当然ながら、お道具箱の中は味噌煮のにおいが残ってしまいました。

さらに、魚のつみれ汁を食べた際に小骨が喉に刺さった経験があり、それ以降刺身を除く多くの魚料理が苦手になりました。

運動も得意ではなく、徒競走ではほとんどの場合、最下位か下から2番目でした。

休み時間に逆上がりを練習していて、鉄棒から地面に落ちたことも二度あります。

縄跳びの二重跳びも結局できるようにはなりませんでした(現在もできません)。

動きがぎこちないところがあり、中学年の頃にはそれを同じクラスの男子に真似され、からかわれたこともありました。

大人になった今では、眉毛やまつ毛をすべて抜いてしまうような行為はなくなりました。

ただし、抜毛の癖そのものは完全にはなくならず、形を変えて残っているのが現状です。

中学校

中学生の頃は、今振り返っても思い出したくないほどつらい時期でした。

同級生から廊下ですれ違いざまに「キモい」「死ね」と言われたり、舌打ちをされたりすることがありました。

朝、教室に入ると自分の机が倒されていたこともあり、なぜそのようなことをされたのか理解できず、戸惑ったのを覚えています。

また別の日には、移動教室で使うバッグが見当たらず、担任に呼ばれて職員室へ行くと、持ち手の部分がハサミで切られていました。

その場で手縫いで修復して返されましたが、当然ながら元通りにはなりませんでした。

卒業してから15年以上経った今でも結局犯人は分からないままです。


部活動は管弦楽部に所属していましたが、同学年の中では良くない意味で目立ってしまい、親しく話せる人はほとんどいませんでした。

そんな中でも1学年上の先輩2人には可愛がってもらい、持ち込み禁止のお菓子を分けてもらったこともあります。

その先輩たちと一緒にいる時間は日常のつらさを忘れられる貴重なひとときでした。

しかし、先輩が引退して再び一人になると、とても苦しく感じるようになりました。


中学2年生から塾に通っていましたが、同年代の生徒よりも年上の大人と話している方が楽だと感じていました。

大人の方が自分の言いたいことを理解してくれると感じていたからです。

当時は精神的に追い詰められ、自分がいなくなってしまいたいと思うことも何度もありました。

それでも、自分で命を絶つことはしてはいけないことだと思っていましたし、親に心配をかけたくないという気持ちもあり、卒業式の日までほとんど休まず学校に通い続けました。

唯一休んだのは、当時流行していた新型インフルエンザに罹ってしまった時だけです。

卒業式が終わった瞬間に感じた解放感は今でもはっきり覚えています。

その日はできるだけ早く家に帰り、これまでの苦しい日々を忘れてしまいたいと思っていました。

高校

中学時代の経験から男子に対して強い苦手意識を持つようになり、高校は女子校を選びました。

女子校での生活は私にとっては比較的過ごしやすく、楽しい時間でした。

クラスにはさまざまなタイプの人がいましたが、自分の立ち位置を振り返ると、いわゆる『不思議ちゃん』だったのではないかと思います。

家庭科の授業で、『理想の結婚相手の条件』についてグループ内で発表する課題がありました。

私はかなり細かく条件を書き出していたのですが、具体的に何を書いていたのかは残念ながら覚えていません。

ただ、ノートいっぱいに書いていたことだけははっきり覚えています。

結論としては、『男性が苦手』という気持ちでした。

そのことを口にした瞬間、教室全体がざわついたのを今でも鮮明に覚えています。

中学時代の出来事が強く心に残り、異性に対して自然と心を閉ざしてしまっていたのだと思います。


高校では部活動には所属せず、いわゆる帰宅部でした。

放課後に本屋へ立ち寄り、漫画を買って帰る時間がささやかな楽しみでした。

幸いなことに、高校時代はいじめに遭うことなく卒業することができました。

陰口のようなものは多少ありましたが、大きな問題になることはありませんでした。

また、当時は今のようにLINEが当たり前の時代ではなかったため、ネットを通じたいじめに巻き込まれずに済んだことも今思えば救いだったと感じています。

大学

大学進学を機に、親元を離れて一人暮らしを始めました。

地元には希望する学科のある大学がなかったため、一人暮らしは避けられませんでした。

それまで親に任せていた家事やゴミ出しなどをすべて自分でこなさなければならず、生活面ではかなり苦労しました。

同じ発達障害でもADHDの診断は受けていませんが、部屋の片付けは昔から苦手です。

足の踏み場が少ない状態になることも多く、床には髪の毛が落ちていたり、飲みかけのペットボトルが何十本も転がっていたりすることがありました。

この傾向は残念ながら今も大きく変わっていません。

溜まったペットボトルをまとめて洗いに行くと、家族から注意されることもよくあります。

交友関係については、大学時代に友人が1人できました。
ただ、退学後にLINEでやり取りを続ける中で価値観の違いから関係を続けることが難しくなり、最終的には連絡を取らなくなりました。
現在は特に親しく連絡を取る友人はいません。

オリエンテーションの際、教授から「友達は最低でも3人は作りましょう。」と言われましたが、周囲を見ると既にグループができており、声をかけられる雰囲気ではありませんでした。

この時点で大学生活に不安を感じていたのを覚えています。

私が大学に入学した2013年頃はLINEが普及し始めていた時代でしたが、当時は利用していませんでした。

そのため、同じ専攻の学生が作ったグループLINEの会話には参加しておらず、後から「誰が留年するか」といった話題の中に自分の名前が出ていたことを友人経由で知りました。

その話を聞いた時、内容の幼稚さに呆れると同時に自分が問題のある学生として見られているのだと感じました。

実際、その後単位が足りず、3年生へ進級することはできませんでした。

ブログ主について』にも少し触れましたが、単位を落とした理由は講義を欠席することが増え、現実逃避のようにオンラインゲームに没頭していたためです。

そのゲームは『ドラゴンクエスト10』で、現在は引退しています。

当然ながら、そのことは親にも知られ、ゲーム機は取り上げられました。

以後、ゲームができるのは実家に帰った時だけとなり、当時はかなりストレスを感じていました。

その後、3DS版(現在はサービス終了)が発売され、「実家に帰らなくても遊べるのでは?」と思い購入しましたが、文字は小さく、動作も重く、快適に遊べる環境ではありませんでした。

特に大変だったのがチャット機能です。

「こんばんは」「ありがとう」「おつかれさまでした」といった定型文は問題ありませんでしたが、状況に応じた入力が必要な場面では時間がかかり、もどかしさを感じていました。

3DS版ではタッチペンで文字入力をしていたため、変換にも時間がかかり、普段キーボードで入力していた身としてはその差に戸惑うことが多かったです。

中退〜初めての引きこもり

大学を中退して地元に戻ってからは、取り上げられていたゲーム機が返され、再びゲーム中心の生活を送るようになりました。

時間に余裕ができたこともあり、1日中プレイすることも珍しくなく、レベル上げをして全職業をカンストさせ、いわゆる『黄色文字』にすることが当たり前になっていました。

この頃はほとんど家の外に出ることができず、引きこもりに近い生活を送っていたと思います。

例外として、2017年(平成29年)には『ドラゴンクエスト10』を通じて仲良くなった人たちとオフ会に参加し、東京へ行きました

移転前のルイーダの酒場で食事をしたり、カラオケルームでチームプレイをしたりと、その時間はとても楽しいものでした。

その中の一部の方とは同じ年の夏にもう一度、実際に会う機会もありました。

ただし、その際には自分の状況について正直には話せず、『無職』とは言わずに『職探し中』と伝えていました。

『無職』という言葉が相手にあまり良くない印象を与えてしまうのではないかと感じていたからです。

結果として、最初の職場に就職するまでの約2年半はこのような生活が続きました。

就職〜最初の職場

最初に就いた仕事は、派遣での接客業でした。

家族に「接客の仕事をする。」と伝えたときはとても驚かれました。

私の性格からすると、接客はあまり向いていないと思われていたようです。

仕事内容はレジでお客さんが購入した商品をスキャンし、袋詰めをする業務でした。

割れ物は緩衝材で包んでから袋に入れる必要があり、場合によってはラッピングを依頼されることもありました。

特にクリスマスや年度末の時期は忙しく、ラッピング作業に追われることも多かったです。

緩衝材を扱う際に指を傷つけてしまうこともあり、慣れるまでは大変でした。

その職場は、4か月半ほどで退職しました。

理由の一つは、私より後に入った同じレジ担当の人との人間関係がうまくいかなかったことです。

その人は周囲には愛想よく振る舞う一方で、私に対しては冷たい態度を取ることが多く、無言の圧を感じる場面が続きました。

ある時、明らかにわざとぶつかられたことがあり、その出来事をきっかけに強いストレスを感じるようになりました。

そうした小さな不満や違和感が積み重なり、最終的に退職することを選びました。

振り返ってみると当時はまだ自分がASDであるという自覚はありませんでしたが、コミュニケーション面での苦手さを考えると、接客業は自分には負担の大きい仕事だったのだと思います。

二度目の引きこもり

退職後、しばらくの間は無職となり、家に引きこもる生活を送っていました。

引きこもり状態になるのは、これで二度目になります。

2018年(平成30年)4月のことです。

その年、妹は受験生でしたが、「学校に行きたくない。」と言って部屋にこもってしまいました。

結局その日は学校を休んだのですが、隣の部屋から母が妹の部屋のドアを足で蹴る音が聞こえてきました。

その声や物音から、強い苛立ちが伝わってきたのを覚えています。

思春期ですし、反抗的になるのは仕方のないことだと思っていましたが、当時の私はそれを言葉にすることができませんでした。

しばらくすると、なぜか自分にもその苛立ちが向けられ、自分の部屋のドアを足で蹴られる音が聞こえました。

この出来事は今でも昨日のことのように鮮明に記憶に残っています。

その音を聞いた時、「このままではいけない。」と強く感じました。

そして慌ててハローワークへ行き、仕事を探し始めました。

そこで見つけた職場が、次に働くことになる職場です。

次の職場

次の職場は市役所での臨時職員(現在で言う会計年度任用職員)としての仕事でした。

業務内容は事務補助で、正職員の方から依頼された仕事を担当していました。

主な作業はパソコンでのデータ入力で、他には決まった時間に文書を回収・分別し、各職員に配布する業務もありました。

仕事を覚えるまでには、かなり時間がかかった記憶があります。

勤務を続けるうちに、同じ課の別の係に所属していた嘱託職員を中心に周囲の若い臨時職員たちが集まり、遠回しに自分のことを話題にしているのではないかと感じるようになりました。

最初は気のせいだと思い、なるべく気にしないようにしていましたが、次第にそれが自分に向けられた内容だと分かるようになりました。

面と向かって話すときは問題なく接してくる一方で、離れた場所ではわざと聞こえるように否定的なことを言われる状況が続きました。

中心となっていた人物が退職した後も、別の職員が同様の態度を取るようになり、その状態は1年以上続きました。

その影響は精神面だけでなく身体にも現れるようになりました。

抑うつ状態が強くなり、朝、出勤時間が近づくと吐き気が出るようになり、食欲も大きく低下しました。

一方で、昼になると反動のように食欲が増し、食堂では大盛りを注文することが多くありました。

体格が細いため、食堂の方に「大盛りで大丈夫ですか?」と確認されることもありました。

睡眠にも影響が出て、酷い時には2時間ほどしか眠れない日もありました。

このままでは心身ともに限界だと感じ、退職を決意し退職日の約2週間前に上司へ申し出ました。

本来は1か月前までに申告する必要がありましたが、その頃は精神的にかなり追い詰められていました。

最後の1か月は欠勤が増え、結果的に出勤できた日数は半分以下になりました。

退職当日の夕方、同じ課の方々に挨拶をした後、わざと大きい声で「やっと終わった」と言われたのが耳に入りました。

その言葉を聞いた時は強い感情が湧きましたが、何もせず、その場を離れました。

欠勤期間も含め、勤務期間はおよそ1年4か月でした。

三度目の引きこもり

退職後、およそ2年近くはほとんど外に出ることができない状態が続きました。

それだけ、心に受けた傷が大きかったのだと思います。

そんな中で、ドラクエ10のフレンドから

「今は自分の好きなことをして過ごすといいよ。」

と言われたことがあり、その言葉にとても救われました。

この頃から冒険日誌の更新頻度もそれまでより自然と増えていったように感じています。

少しずつ精神的に落ち着きを取り戻し、外に出られるようになったことで現在の職場に就くことができました。

現在の職場

現在働いている職場は小さな会社です。

入社当初は事務所での業務を担当していました。

しかし、電話対応で大きくつまずきました。

市役所で働いていた頃は電話対応は正職員の方が行っており、自分が対応することはありませんでした。

一方、現在の職場は人数が少ないため、電話対応を避けることができませんでした。

思い返すと、小学生の頃に『聞き取りテスト』という、放送を聞きながら必要な内容をメモし、問題に答えるテストがありました。

私は話を聞きながら同時にメモを取ることが苦手で、最初から全て書こうとしているうちに話が先へ進んでしまい、結果的に内容を整理できないことが何度もありました。

そのテストでは100点満点中30点しか取れなかった記憶があります。

それほど同時に複数のことをこなすのが苦手です。

電話対応でも相手の話すスピードが速いとメモが追いつかず、何とか書き留めても文字が乱れてしまい、自分でも読めないことがありました。

その結果、取次の際に相手や社内の人を困らせてしまう場面も少なくありませんでした。

事務所での仕事はデータ入力や電話対応だけでなく、来客対応も含まれていました。

毎週木曜日は赤ちゃん連れの来客が多く、背後で泣き声が響く中で業務を行う必要がありました。

その泣き声が非常に強く耳に響き、家に帰ると他の曜日と比べて木曜日だけ極端に疲労が強く出ていました。

後になって、これは感覚過敏(聴覚)によるものだと知りました。

入社して約2年が経過した頃、事務所から作業場へ配置転換となりました。

作業場では電話対応はなくなり、物づくりが中心の業務になりましたが、今度は作業スピードが求められました。

作業に時間がかかりすぎることで「遅い。」と注意されることが何度もありました。

自分なりにスピードを上げようとすると、今度は仕上がりの質が下がり、再び指摘を受けるという状況が続きました。

職場では何とか気持ちを抑えていましたが、家に帰り、自分の部屋に入ると感情が溢れ、家族に気づかれないように静かに泣いてしまうことがありました。

その回数は、もはや数えきれません。

ストレスチェックに引っかかる〜初めての心療内科

ある日、職場でストレスチェックを受ける機会がありました。

その結果、『高ストレス』と判定され上司と面談を行ったうえで、職場と提携している心療内科に通院することになりました。

それまで精神科や心療内科とは無縁の人生だと思っていましたが、まさか現在に至るまで関わることになるとは当時は想像もしていませんでした。

最初に診断されたのは社交不安障害でした。

自分から話そうとすると強く緊張して言葉が出なくなるため、診察の前に『最近の体調や困っていること』を紙に書き、それを医師に読んでもらいながら診察を進める方法を取るようになりました

この時に処方されたのは漢方薬でした。

次に診断されたのは過敏性腸症候群(下痢型)です。

昔から下痢になりやすい傾向があり、腸の調子を整える薬を処方してもらいました。

しかし、しばらく通院を続けても症状の改善があまり見られず、何度か診察を重ねたある日、医師から

「正直にお伝えしていいか迷うのですが……。」

と前置きされたうえで話がありました。

気になったため、率直に伝えてほしいとお願いすると、

「軽い発達障害の可能性がある。」

と言われました。

具体的には広汎性発達障害(現在の自閉症スペクトラム障害)の可能性がある、という説明でした。

その話を聞いた当初はすぐには受け入れることができませんでした。

検査を受けるかどうか決めるまでそのことは家族にも伝えずにいました。

ただ、これまでの人生を振り返ると、何度も強い生きづらさを感じてきたことも事実であり、『はっきりさせたい』という気持ちが次第に強くなりました。

少し時間を置いた後、検査を受けたい旨を医師に伝えました。

まずはスクリーニングとしてAQテストを受けました。

50点満点中33点以上で発達障害と診断される可能性が高いというもので私の結果は39点でした。

より詳しい検査を行うためには転院が必要とのことで、現在通院している医療機関へ紹介状を書いてもらい、転院することになりました。

転院〜診断

2023年(令和5年)12月に心理検査(WAIS-Ⅳ)を受けました。

心理士の方と1対1で、2時間近くかけて行う検査でした。

結果を聞くまでの約1か月間は発達障害についてインターネットでさまざまな情報を調べて過ごしていました。

そして結果説明の日に渡された資料を見ると全体的なIQは平均範囲でしたが、最も高い言語理解と最も低い処理速度には約30ポイントもの差がありました。

頭の中で考えていることと、実際の行動がうまく噛み合わないと感じることは以前からありましたが、この結果を見て作業のスピードが遅いという自覚とも一致しており、「やはりそうなのか。」と納得した部分がありました。

また、養育者から幼少期の様子を聞き取り、ADHDやASDの傾向があるかどうかを確認する項目もありました。

ADHDについてはカットオフ値を超えていませんでしたが、ASDについてはカットオフ値を超えているという結果でした。

念のため、診察の最後に「自分は発達障害に当たるのでしょうか。」と確認したところ、医師から

「発達障害です。」

とはっきり告げられました。

その瞬間、「やはりそうだったか」という思いと同時にこれまで感じてきた生きづらさの理由が分かり、どこかほっとした気持ちになったのを覚えています。

その後

職場には上の立場の人にしか事情を伝えていません。

そのため、事情を知らない人たちの前ではこれまで通り『定型発達であるかのように』振る舞いながら過ごさなければなりませんでした。

正直なところ、それは精神的にかなり負担になっています。

ある日、職場で誰かがちらっと『発達』という言葉を口にしているのを聞いたことがありました。

その言い方から発達障害に対して差別的な認識を持っているのではないかと感じ、強い失望感を覚えました。

職場には身体障害のある方は何人かいますが、発達障害のある人は私の知る限りでは自分しかいないように思います。

上司への報告・連絡・相談もうまくできず、そうした状況が続くうちに精神的な状態は日に日に悪化していきました。

気がつけば1か月のうち半分ほどは体調不良で欠勤し、自宅で寝込む生活になっていました。

このまま休み続けるのはよくないと思い、病院を受診して診断書を書いてもらいました。

診断結果は「うつ状態」でした。

当初は1か月間の休職でしたが、休職期間の終わりが近づくにつれて精神的に不安定になることが多く、医師と相談したうえで休職期間を延長してもらいました。

体調が比較的安定している日には通院している病院で行われているデイケアに半日だけ参加しています。

まだ参加できる頻度は少ないですが、将来的には1日通して参加できる日を少しずつ増やしていけたらと考えています。

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